自治体職員の勉強ブログ

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荻上チキ『災害支援手帖』(2016)

来月、東日本大震災に関連して、仕事で宮城県に行くことになりました。そして本書を事前に読むことにしました。

災害支援手帖

災害支援手帖


(折しも九州で大規模な地震が発生しました。これを書いている今も余震が続いています。犠牲者のご冥福と被災者のご無事を祈ります。)

本書では、避難訓練ならぬ支援訓練というものを提案します。
避難訓練が自分の命を守るためのものならば、支援訓練とは誰かを助けるためのもの。
避難訓練での「おかしも(押さない、駆けない、喋らない、戻らない)」が私たちの身体に染みついているように、支援訓練が適切な支援が私たちの身体に染みつき、同時に、私たちを適切な支援に衝き動かすこと、それが本書のねらいであるように思います。


【実は今になっても曖昧だった言葉】

まず、本書を読む中で、よく耳にしていたけれども、あらためて意味を確認すると、実は私の理解が曖昧であった言葉があることに気がつきました。

たとえば、

義援金・・・被災した人たちに対し公平性をもって直接配るための募金(受付機関がまとめるため、時間を要する)
支援金・・・被災者を支援しているNPOや民間ボランティアなどの特定の活動を支えるための募金
クラウドファンディング・・・インターネットでプロジェクト(ここでは被災者を支援するもの)を告知し、多くの人から少額の募金を集める方法
防災・・・災害を起こさないための対策
減災・・・災害が起こった時に被害を小さくするための備え

など。

恥ずかしながら私は義援金と支援金の違いもあまりはっきりとは分かっていませんでした。
それぞれの言葉の理解が曖昧なままであると、その行動をとるまでにはなかなか至らないですよね。


【支援の難しさ】

現地で支援できること、役に立つことはいくらでもあります。でも、かえって迷惑になってしまうことはもっとあります。
(本書p.22より抜粋、太字筆者)

このように本書では言っています。
現地支援に限らず、あいまいな理由で物資を支援したら、大量の支援ゴミとなりかえって負担になるという事態もあるそうです。
そういったことにならないためには、現地のニーズを知っている人と提携し、その人たちからの情報を頼りにすることが重要とのことです。


【自己完結型の支援を】

現地支援を行う場合には、自己完結型の支援が鉄則なのだと言います。「自己完結型」というのは、輸送や資材・食材確保、宿泊や食事、ゴミの処理などを全て自分たちで行うことを意味します。現地の食材を食べ尽くしたり、帰ったあとに多量のゴミを残していくようでは駄目ということです。


【「花形」だけがボランティアではない】

支援は、炊き出しやがれき撤去など、災害ボランティアとしてイメージのしやすい「花形」と目されるものばかりではありません。花形を支える裏方こそが目立たなくとも必要な場合が少なくなく、本書ではそれらも率先して引き受けることの重要性を説いています。


【募金やボランティアはなかなか続かない】

本書は、災害への関心が薄まるにつれて募金が集まらなくなること、「はやり」が過ぎればボランティアが少なくなることを指摘します。
本書で示される、日本財団実施の東日本大震災支援基金の推移では、2011年に約22億円であったものが2013年には約6千万円に、社会福祉協議会受付の東北3県(岩手・宮城・福島)へのボランティア活動者数の推移では、ピークの2011年5月には約20万人であったものが2014年1月にはその2%の4千人弱になっています。

ニーズの減少というだけの理由ではないでしょう。

このような時間という敵に対抗するには、私たちのあいだに支援の文化を育てていく必要があると言います。

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東日本大震災が発生したのは2011年の3月。当時大学3回生であった私は、ちょうどその時、就職活動の面接で高層ビルの最上階にいました。向かいに建つビルはまるで蒟蒻のように揺れており、震源が東北地方(震源と私がいた場所との距離は600km以上は離れている)だと聞いた時、これは歴史に刻まれるような事態だと直感したのを覚えています。
地震後は高校同級生の有志が募金活動をしていたこともあり(今思えば義援金)、それに協力したことはありましたが、自らが現地に足を運んで支援を行うというようなことは結局ありませんでした。

そこには私を今いる場所に引き留める「何か」があったように感じます。

「良いこと」が自己満足になってしまう可能性に対しての漠然とした不安感や、好奇心に押されて行動を起こすことに対する自制心・・・。

その点、私には支援に対する心構えが大きく欠けていたのだとも言えます。

本書が提案する支援訓練に私は賛同します。支援のニーズがある時、何をすれば良いのか分からなくなってしまうのではなく、私たちの身体が適切な支援に向けて「さっ」と動き出すことは、これまでもこれからも必要であると思うからです。